
平井正也 作
魚の世界には医者はいません。鳥の世界にも医者はいません。その村にもやっぱり医者はいませんでした。けれどもわたしは、わたしたちのことばでは医者と呼ぶのがほんとうのような人を知っています。ですからわたしたちは彼のことをDr.ハポンと呼ぶことにしましょう。
第12話「Dr.ハポンのたのしい晩餐」
どんどんどん!どんどんどん!
村に春一番が吹いた日でした。
誰かがDr.ハポン家の玄関をものすごい勢いでたたいています。
あわてて扉を開けると、そこには友達のネオンが汗だくでぜーぜーいいながら立っていました。
「た、たいへんだよ、ハポン!」
「そんなに急いでいったいなにがあったんだい、ネオン?」
「たいへんなんだ!あのね、・・・えーっと、えーっと・・・あれ?なんだったっけ?」
あんまり急いで走ってきたので、ネオンは大事な用事をすっかり忘れてしまったのです。
ゆっくり思い出そうとしますが、ほんとうに忘れてしまったようです。

「まあ落ちついて水でものんで。ぼくも一緒に考えてみるよ。
そうだなあ、ここまで走ってきたのなら体の調子は悪くなさそうだね。
縁の下に住みついたたぬきがついに赤ちゃんを産んだとか?」
「ちがうよ。だいぶお腹が大きくなったけど、まだ産まれていないよ。」
「それじゃあ、この春はじめてのキャベツがとれたとか?」
「いくらぼくが食いしん坊でもそんなことで走ってくるもんかい!」
ふたりでいろいろ考えましたがどうしても思い出せません。
そこへちょうど村のみんなが遊びに来て一緒に考えてくれました。
「探しとったわしの入れ歯がみつかったんじゃないのかい?」とポレポレじいさん。
「か、花粉症にとてもよく効く薬を発見したとか?」とアロアロくん。
「あったかくなっていつの間にか夢でもみてたんじゃないの?」とネルコちゃん。
「おいらになにかごちそうしてくれるんじゃないのかぁ〜い?」とノンノン。
みんな一生懸命ですが、ネオンはちっとも思い出せません。
あれこれいいあっているうちにいつの間にか日も暮れそうです。
その時ハポンはいまにもネオンの目から涙がこぼれそうなのに気づいたのです。
「思い出せないことはもういいから、今晩のこんだてを考えようよ。みんなもうぺこぺこだろう?」
ハポンの提案にみんな賛成して、晩ごはんの支度をはじめました。
とれたて春野菜のスープです。みんなで食卓を囲むのは久しぶりのことだったので、みんなにこにこして、たくさんおかわりして、たくさん話しました。思いがけず素晴らしい晩餐でした。

夜が更けてみんなが帰った後も、ネオンはまだハポンの家にのこっていました。
ほんとうはネオンはもう思い出していたのかもしれません。
このお話がこれでおしまいだということを。だけどそれを話すのはやめにしました。
「ねえ、ハポン・・・思い出したときすぐ話したいから、今夜は泊まっていってもいいかい?」
「もちろん。でも忘れてしまっても、それで心がかるくなるならいいかもしれないよ。」
その夜ふたりはいつまでもとりとめのないことを話して、なかなか眠れませんでした。
いままでこのお話を読んでくれたみなさん、ほんとうにありがとうございました。
みなさんはDr.ハポンやネオンたちのこと、たまに思い出してくれたらうれしいです。
彼らはいつまでも物語の終わりを知らずにのんきに暮らしています。それは月にいちばん近い山のいただきかもしれませんし、宇宙の反対側の小さな星かもしれません。
 おわり
(「健康保険」2006年3月号 掲載)
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